田園テニス倶楽部とは
1934年、日本のテニス史はここから始まりました。田園テニス倶楽部と、隣接する田園コロシアム。それは、まさに日本のテニス史を彩る舞台でした。
1936年に日本で始めてのテニスの国際試合を開催し、全日本選手権、デビスカップ、ジャパンオープンなど数々のビッグゲームを開催。
1989年、田園コロシアムは惜しまれつつその歴史を閉じましたが、田園テニス倶楽部は、誇り高き名勝負の記憶と、香り高きテニス文化、世界有数といわれたクレーコートを守り続けています。
田園テニス倶楽部の誕生
昭和初期の日本テニスは今では考えられないくらい強く、昭和7年ウインブルドンベスト4、昭和8年全仏・ウインブルドンベスト4、全仏のダブルスでは決勝進出の大活躍を見せながら南の海に命を断った伝説の名選手・佐藤次郎、昭和9年日本人初のウインブルドン混合ダブルス優勝をなし遂げ、日本テニス界に一大センセーションを巻き起こした三木龍喜、世界ランキング第7位にランクされた山岸二郎など、名選手が輩出しテニス人口も次第に広がっていった。
このころ、昭和9年11月、田園調布に「田園テニス倶楽部」が誕生した。
スタート当時の田園テニス倶楽部は、会員定員400名、会費月5円、約2,000円程度の収入で毎月運営され、この中でコート係数名を置き、コートの手入れ、ローラーかけ、ライン引き、場内の掃除・整頓、冬期朝夕のムシロかけ・はがし、毎年春にはコートの土起こしを行い荒木田土を入れるなどの作業を行っていたので、維持費はかかっていたと考えられるが、ロビー兼食堂、会議室、事務室、ロッカールーム、浴室、トイレの他、メインコートに面してテラスが設けられており、東京のテニスクラブとしてはかなり設備の整ったものだった。
田園調布という環境と田園テニス倶楽部という充実したクラブの存在があって、田園調布とテニスに関するプレステージはかなり高くなっていただろう。
▲1936年田園コロシアムの開場記念に来日し、日本初の国際試合を行ったウィリアム・チルデン選手
▲1955年日本で初めてデビスカップ東洋ゾーン決勝を開催。
3日間の大会で2万人の観衆を集めた。